七里結界鼻つまみ

ななりんこメモ
七里の鼻の小皺 / twitter

Sep 28

七里の歌謡曲日記8 ガロ「学生街の喫茶店」、あるいはすぎやまこういちについて

だが(この逆接は杉本彩に掛かっている)、歌謡曲の幸福な夢が、どのような危険と対価になっているのか、十分意識しておく必要があるのだろう。感受性の一元論は、つねに退嬰の夢と表裏になっている。否定神学と多様性の「倫理」を超えて、感受性による選択の問題を、あるいはひとつの詩学を語ろうとしてきたわれわれの歌謡曲論は(大変なことだ)、ここではっきりと感受性の暴力と、ファシズムの危険と向き合う必要がある(相対主義的なシミュラークルの世界に抗して、自分と世界を接続しようとする悪しきセカイ系と決断主義の論理に欠けているのは、「なぜ勝利するのは自分でなくてはならないのか」という問いであり、つまり暴力への問いなのだ[だから、それは素朴な実存主義に陥る]。すぐれたセカイ系作品は、無意識的にこの問いに応じようとしているようである)。

ヒトラーの風景画は「RPGや宮崎アニメに出てきそうなものが多い」という評価をあるサイトでみかけたが、この指摘はきわめておおきな問題につうじている(ttp://rasiel.web.infoseek.co.jp/words/660530.htm)。われわれにいま必要なのは、宮崎駿の描く空想の「ヨーロッパ」の美しさに、山川直人『コーヒーもう一杯』に流れる時間の心地よさに惹かれながら、なおその背後に潜む退嬰への夢をファシズムと切り離す、美学の論理的強度にほかならない。

ガロの「学生街の喫茶店」の作曲者が、すぎやまこういちだということを、ぼくはいままでほとんど意識しないできたようだ。あらためて聞きかえすと、なるほど多くのところで(とりわけ間奏において)、すぎやまこういちのリズムが現れている。この復古的で勇壮なリズムのうちに潜んでいた危険がいま、すぎやまの政治的発言として顕在化してきていることを、われわれは知っている。たとえば、ネットからの引用になってしまうが、「チャンネル桜」を初出とする以下の発言。「このままでは沖縄や日本は将来的に、第二第三のチベットになってしまう。中国は精神的にも害毒を撒き散らしている。悪がね、ドンドンはびこってきてっていう、その悪の帝王を倒しに行く、ドラゴンクエストで遊んだ人たちが、その、悪の帝王に対しては戦わなくてはいけないんだと、戦って平和と幸せを勝ち取るんだということをね、ドラゴンクエストを通じて肌で感じて学んで欲しいですね。まぁ、極端に言えば、憲法改正をね、ドラクエパワーも手伝っているよ、と」。ぼくは、ドラクエの物語がそのように利用されうる弱みをもっていることを認めるが、同時に、そのような危険にたいして、堀井が『6』や『7』のいくつかのシナリオのなかで、どのように対処してきたかを読むことができるつもりだ。この点については、いずれドラクエ論のなかで記す必要があるだろう。「ときは 流れた」。むかしは隣の村同士が争ったものだと、県同士の戦争をしながら人々は笑った。むかしは隣の県同士が争ったものだと、国同士の戦争をしながら人々は笑った。むかしは隣の国同士が争ったものだと、星同士の戦争をしながら人々は笑った。そんなくり返し自体を、ぼくは明日あなたと笑いたいのだが。


Sep 27

七里の歌謡曲日記7 杉本彩「うさぎ」

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Sep 26

七里の歌謡曲日記6 日吉ミミ「男と女のお話」

冷蔵庫が壊れたので、スーパーでの買い物にかなり繊細な気づかいが必要になった。 ぼくがよくいくスーパーでは、なぜかケイティ・ペリーがしばしばかかっていて、きらいじゃないけれど、なんだか気恥ずかしい。近所のスーパーで「Ur so gay」とか口ずさんでしまうのは、なんだか違う気もする(あれほど文系男の自尊心を世界的な規模でとりもどしてくれた歌も珍しく、やはり嫌いじゃないのだが)。

最近は、ずいぶん将棋を並べたりしていた。王座戦の山崎隆之は、やはりいいところがあまりでなくて、ファンとしては悔しかった。この悔しさは順位戦にぶつけようぜ、と自己投影してしまう。

将棋のリアルタイム中継を観ていると、やはり単に棋譜を並べるのとは違う、強い臨場感を感じる。山崎が、まだ時間の使い方を苦手としているのではないかとふと感じられたり(とくに第二戦など)、あるいは途中で紛れさせるような勝負手の意味が、時間の経過のなかで一層理解できたような気になったりして、ますます面白いのである。こういうものを観ていると、コンピューターがトッププロと並ぶことはあっても、勝負の場においてはそれを追い越すことはないのではないかとさえ感じる。すくなくとも、時間制限があるかぎり、プロたちの対局の意味が消えることはない。「制限」というものは、いつも生産的であるからだ。

たとえば、プロの対局を時間制限なしにして、「持ち込みあり」(ノートもコンピューターも)にした方が、将棋というゲームを早く消尽させるには、効果的なのかもしれない。しかし、やはりそのような無制限さへの幻想は、無意味なのだ。というのは、世界は有限だし、有限であるかぎりにおいてしか意味をもたないからだ。

麻雀の試行回数を無限に設定したうえでの極端な「デジタル理論」が虚しいのも、そのためだろう。実際、無限回麻雀をした場合の勝率など、だれがほしいと言うのだろうか。「勝利」という概念をそのように痩せさせてまで、われわれは勝ちたいとは思わないし、むしろそのようなゲームはほしいやつにくれてやればいい。問題になりえるのは、有限な時間のなかでの勝負だけであって、理論的な「勝利」の確率などではないのである。人生の有限性に直面しないそのような素朴な理論主義こそ、じつは悪しき理想主義にほかならない。まして、時間と直面できない弱みを糊塗するために、理想的に弱い他者を想定して貧しい防衛機制に自分で翻弄されているだけのとつげき東北の新書などは、ただ自分の臆病を晒しているだけのことである。

さて、歌謡曲については、どこまで話したか。初期衝動や恋の切実さの虚構性自体を意識するところに、誠実さがどのように宿るかという問題であった。おそらく、この種の誠実さの問題は、切実さを裏切らざるをえないという意識のなかで裏焼きされる。この裏焼き現象は、歌謡曲の切実さへの疎外が意識されるところ、つまり高度消費社会の予感のなかで生じることになるわけだ。モダンと哀愁の交互する日吉ミミの声のなかでは、つぎのように。「恋はおしゃれな ゲームだよ」。この言葉の含みが、岩崎良美の「恋ほど素敵なショーはない」のなかで去勢されるとき、真に八十年代がはじまるわけだ。


Sep 24

七里の歌謡曲日記5 サイプレス上野とロベルト吉野  feat.TARO SOUL「LOVE SONG」

一本の電話がうまくいって天にものぼるような気持ちになったり、それなのに言葉のなかだけで生活している気になって一進一退に一喜一憂したり、例によって日記が書けないと毎日書いてみたり、そんな調子だから、やはり日々のことを書くのは簡単じゃない。ともかく、家と図書館でなにか書いている。この日記はただ、眠る前に歌謡曲聞きながら、あまり後ろを振りかえらずに書くための時間になりそうだ。

キングオブコントは、ざっとだけれど観ることができた。今回は、前回の反省も諸々あるのだろうけれど、いい面子での決勝だったと思う。ともかく、しずるの色気がよく出ていて、とてもよかった。とくに一本目の演技がすばらしい。あのネタは初見だったけれど、しずるの演技の幅が広がっていくことを感じさせて好もしかった(事前インタビューでの自信の意味が、よくわかった)。それ以外では、モンスターエンジンの背後霊ネタが元気よくて、忘れがたかった。

状況の特殊性がそのまま普遍性に転嫁しうるところに、コントの状況の感染力があるとしたら、やはりぼくは作りこまれたコントに危険を感じてしまう(ラーメンズや千原の近作が、微温的な演劇に転嫁する危険性を指摘したときと、事情は変わらない。だから、ぼくは以下で言い過ぎをするかもしれない。もしも日本のお笑いに批評というものが生まれるなら、その批評は事後的な説明や合理化ではなく、誤る可能性も引き受けて、未来の笑いの方向を示さなくてはいけない)。ここでいう「普遍性」の模範を、精神分析的な意味での子供の幻想の遊戯だけにおくわけでは毛頭ないが、それでも「つくりこまれた大人向けのコント」など、くそくらえなのである。ただしく大人に向けられたコントは、はっきりと子供じみた部分を有しているべきだ。はんにゃやしずるを、「女子供向け」だと鼻で笑おうとしている人間の笑いは、けっきょくは鼻どまりのものなのだ。

その意味で、東京03にはときに「演劇」に転嫁する危険を感じないではなかった。とはいえ、内面の劇にこだわらずに、性格類型の配置を状況の普遍性に奉仕させるところでは、彼らはつねに安定していた。キャリアからしても、優勝に異論はない。天竺鼠は、もっと粗くつくらないとメタコントの味がでないような気がして、すこし残念だった。時間を引き延ばしても、ただ薄められるだけに感じた。いずれにせよ、彼らや野爆が活躍できるか否かは、むしろキングオブコント自体の名誉の問題である。サンドウィッチマンは、語感で笑わせてしまうなら、その部分ではまるで状況を生かせないように感じた。

長くなりそうなので、ここまでにしてしまう。書きながら聞いていたのは、ここ数年で何回聴いたか分からない、サ上とロ吉の『LOVE SONG』。「おまえが おまえで いてくれるから俺も前へ」。これほど眉唾で、だから切実な歌もない。ほんとうのことと、心にもないことの区別を、彼らはすっかり無意味だと信じている。そして、そのあとで、その信じる強さを誠実さと呼ぶことができると言っているのだ。コント遊戯の強度は、そのようにして生まれてくるものに違いない。


Sep 22

七里の歌謡曲日記4  野狐禅「自殺志願者が線路に飛び込むスピードで」

昼間、気合いをいれたくて、喫茶店で牛肉を食べる。ごくたまに、ただ粛々と肉を食べたくなる。その後、公園を二つほど散歩して、写真を撮ったりする。たくさん歩く。今日はとても暑く、途中でジャケットを脱ぐ。

帰って、ぽちぽちと文章を書く。今日も、あまりすすまない。

夜中、ひさしぶりにパリにやってきた先輩と会い、そのままお酒も飲まずに五時間ほど話す。こんなのも珍しく、なんだか嬉しい。

朝方、とてもひさしぶりに野狐禅を聞く。「そのライブハウスではいつも 70年代フォークが流れており ぼくは彼らのメッセージに応えるべく 全身を硬直させたんだ」。野狐禅は、ひどく時宜を得ない、普遍的な狙いをもったフォークバンドで、ぼくはその音楽がいいときも悪いときも、単に彼らの曲が好きだった。今年、解散に際して竹原は、このバンドを適切にも「初期衝動」と言いかえている。「野狐禅を初期衝動と言い換えたならば、俺達が俺達であるためには初期衝動という時間をいつまでも持続させなければならないのだという、どだい不可能な思いが源となっての葛藤ではあります」。

初期衝動がたもたれないこと、変わってしまうことをこそ、野狐禅は耐えるべきだったようにも思う。けっきょく、それができないなら、衝動というものの弱みをあかすだけなのではないか、とも思う。しかし、それでも「初期衝動」と言い換えられるだけのバンド名は、そう多くあるわけではない。だから、野狐禅はすくなくとも、われわれが耐えてゆかねばならないはずの曲がり角の一つを、たしかに指し示してくれている。


Sep 21

七里の歌謡曲日記3.4  南沙織の美しさのための補遺4

しかし、「自然」の問題がすべて、人工性の精度競争に回収されてしまうわけでは、もちろんない。ここで戸川純が、人工性に糊塗されない不自然な動きがあることをもって指し示しているのも、やはりあの「自然」の海辺の恋の一日の南沙織の記憶に違いない。


七里の歌謡曲日記3.3  南沙織の美しさのための補遺3

アイドルは「人工化した自然」であって構わないという、ありうべき解答が提示される。


七里の歌謡曲日記3.2  南沙織の美しさのための補遺2

「まだ、今日も」。

南沙織はいつも回想を歌っていたがゆえに現前の約束であり、天地真理は「あなたを待つ」夏の日の現在を歌っていたがゆえに過去の約束である。


七里の歌謡曲日記3.1  南沙織の美しさのための補遺1

南沙織が美人であるということはできない。美人という概念が南沙織によって定義されてきた以上、われわれは美人がどの程度南沙織であるかと問うことしかできない。


七里の歌謡曲日記3  南沙織「ひとかけらの純情」

どうも体調悪く、一歩も外にでずにいてしまう。こんなパリ滞在日記があるだろうか。とりあえず、編集作業はひととおり終わりにする。

医者の書いた古い文章ばかりを読んでいる。ぽちぽちとまたなにやら書きはじめる。生ハムのサラダをつくって、クラッカーと一緒に食べる。

いやなニュースばかりが入ってくる。久住小春がハロプロを卒業するらしい。鼻をぷーんとしてしまう。年齢よりも、幼い歌ばかりを歌いつづけてきた彼女は、アイドルというものをどう考えることができたのだろうか。

夜、南沙織をたくさん聞く。日本のアイドル史の起源に、南沙織が据えられつづけてきたことの意味について、最近よく考える。美空ひばりが年齢よりも大人びた歌を歌いつづけて批判されていた時代と、久住小春が幼い歌を歌いつづけて引退していく現在とを一つの線分で結ぶとき、自分と歌の年齢が一致する幸福な原点として、南沙織のデビュー曲「17歳」が浮かびあがるように思うのだ。自分そのものであるという、演技を前提としない現前のインパクトが、アイドル史の起源としていまも輝いている(松本伊代は、自分が「まだ16歳」だといったときに、すでにその現前に遅れはじめていた)。「私はいま、生きている」という南沙織の言葉が、アイドルの現前の約束なのだ。だから、森高千里がアイドルの人工性を主張するために、「17歳」を加工したのは、きわめて鋭い戦略だったようである。

「自然」という概念は虚構だと言って、なにか理性的なことを言ったような気になっている人々を、ぼくは信じられないだろう。というよりも、「自然」という概念の虚構性のなかに、ぼくはいっそう自分の故郷の海を感じている(ぼくは飛行機のなかで生まれたので、故郷をもたないのだが)。だから、南沙織というアイドルが当時の日本にとって、返還される沖縄であり(戦争という原体験であり)、自然そのものであったというのでは、まだ足りないのだ。日本人は南沙織のなかに、「返還される沖縄」を生みだし、自然そのものを生みだし、故郷の海を生みだし、青春の「あの日」を生みだしたのだ。以前、リア・ディゾンとスザンヌをめぐって書き換えられつつある日本人像について、書いた記憶がある。その35年以上前に、沖縄という水際で、われわれが現在の日本列島と日本人の姿をはじめて見いだしたのは、南沙織をとおしてなのだ。

もしも、今夜悪い人がやってきて、「世界のアイドル歌謡をすべて奪っていく」と言ったとしたら(悪いやつだ)、そして一曲だけは許してやろうと言ったとしたら、ぼくは宮村優子の「蒼い風の向こうに」のことを一瞬思って、けっきょくは「南沙織の「ひとかけらの純情」だけは置いていってくれ」と頼むのではないだろうか。「あの 恋のはじめの日を だれかここへ つれてきて ほしいの」。南沙織は、いつもそのはじまりの日の記憶を、ひとかけらだけ伝える福音者でありつづけている。


Sep 20

七里の歌謡曲日記2  都はるみ「惚れちゃったんだヨ」

いい天気の週末なのに、スーパーの買い物に一度出たきりだった。延々とひっぱってきた論文を、いよいよ終わらせなくてはいけないのだが、相変わらず資料を読むだけで時間がすぎていく。いままで、書くにあたって無意識的に避けてきたようなことを、今回たくさんやってしまっているような気もする。

はじめることと終わることの欺瞞を、どうせどこかで背負いこむなら、けっきょく見るまえに跳ぶしかない。その場合、本当のことでは遅いのだ。ともかく、この山をこえなくてはいけないのだから、こえるのだろう。

あまり食欲なく、クッキーやチョコレートなどを思いだしたように摘むだけになってしまう。夜、ようやく御飯を炊いたが、なにをつくる気もしない。缶詰の鰯と生野菜を交ぜてサラダにして、それで夕食にしてしまう。

いままで、あまりインターネットに「パリ暮らし」のことを書かずにきたのに、ここでついに生活について、書きはじめてしまっていることに気がつく。いまは、暮らしと呼べるほどのものも、あまりないようだが(破られた『のだめカンタービレ』のページが、パリの日本人街に舞っており)。

昨日引いた、「西へ流れて 行く女」という一節が、ふいに自分のことであったように感じられて、すこしおかしい。自分の頭のなかに浮かぶすべての言葉が、その語義とは別の意味を主張してくるように思われて、それをぜんぶ読んでいると世界は煩わしくて、おかしくなりそうになるから、やはり目をつぶって跳ぶしかないのだ。意味では、遅すぎるのだ。

また都はるみを、たくさん聞いてしまう。「アンコ椿は恋の花」の、鼻にぬける音の美しさに、ただ聞き惚れる(都はるみの、フランス語の鼻母音を聞いてみたくなる)。「惚れちゃったんだヨ」のうなりには、意味をよせつけないスピリッツがあって、力づけられる。男歌が、こんなにいい人も珍しい。「惚れたら男さいさぎよく ここが ここが年貢のおさめどき」。じっさい、そのとおりなのだ。


Sep 19

七里の歌謡曲日記1  藤圭子「京都から博多まで」

三日くらい書きあぐねていた手紙を、ようやく送る。パイロットの、ブルーブラックで書く。ラブレターさえ自己模倣に陥ったら、人はいよいよ書く理由がなくなるのだろう。だが、それまでは違うのだ。

滞在許可証を受けとりにくるよう言われていたので、警察署へでかける。すると、許可証は数駅離れた別の場所にまとめて保管してあるという。それならば、なぜ最初からそれを言わない、と昔なら思ったものだが、そのようなフランス流の不手際にすっかり慣らされている。なにしろこの数年間にわたって、滞在許可証の受け取り場所と方法は、結果的に毎回のように異なっている。毎年毎年、なぜ彼らは後手後手に多様な方法を考えだすことになるのか、すでに理解の外だし、あまり考えても仕方のないことだと思う。日本のお役所の「たらいまわし」など、ものの数ではなく、ここでは単におおくのことが整備されていないし、気にもされていないのだ。

夕方になり、後輩Nくんをさそってベトナム麺を食べにいく。最近は、鶏のフォーのスープが、お腹にやさしくてちょうどいい。Nくんと、例によって噂話などはじめるが、噂話の宛先もみな帰国してしまっていることに気がつく。寒くなるまえに引き返す。

論文集をまとめる作業を、ぽちぽちとつづける。時間をかけてもしょうがないので、空いた時間にすすめておきたい。作業しながら数日ぶりに、ヒューガルデンの缶を二本あける。生ビールが飲みたくなってしまう。

夜、演歌歌謡を聞く。「西へ流れて 行く女」という歌詞が、いいと感じてしまうのはなぜなのか、自分を正当化できないし、する気もない。藤圭子が、恐いくらいに美しい。


Sep 14

いままできいてきたKDUBネタのなかでベスト


Sep 13

人生はすでに冗語なのだ


Sep 4

『闘牌伝説アカギ』 アニメメモ

原作:福本伸行、監督:佐藤雄三、制作:マッドハウス。

・一話:人物がみなマッチョで異様(とりわけ南郷の肩)。麻雀映画・Vシネあたりをモデルにしたのだろうか、かなりハード路線を狙っているが、かえってギャグになってしまっている。ギャグになりそうでならないという、ぎりぎりのラインを踏み越えてしまっているとも言える。役者たちの声も、アニメらしくないものに奉仕していて●『逆境無頼カイジ』の方が、アニメらしいアニメになっていて、こちらは荒削りに見える。輪郭のゆがみも大きい。「ざわざわ」などの、マンガ独特の演出も使わずにいるから、実写を模範としているのだろうという印象である。EDに実写とりこみの場面があることも指摘しておこう。

・二話:八木がやってくる。捨て牌三種の読みの説明。これって言い方を変えると、後半の裏スジが危ないという、古の本に載っていた話だと思うのだけれど、まあ見せ方がうまい。また、自分を信じる才能、という話もでてくる。その点で言えば、初心者に自分の命を預ける南郷のひらめきと信念が、この夜一番すごい気がする。そもそも、賭け金が徐々にあがっていくこの作品で、南郷だけが初手からマックスの命が(それもずっと)かかっているのだから、なんだかすごい。あいかわらず、額が突出した、マンガとはさらに別の骨格のゆがみがある。

・三話:八木をあっけなく倒す。弱い。カンした牌を四枚見せず、しかもそこにいかさますれすれの隠しがあるという戦略なのだけど、カンの際に四枚見せない倒し方は、動画にするとかなり違和感がある。「ただしいカンの仕方の見本」を、八木がその前に見せているのが伏線になっているのだけれど、とはいえ、それもわざとらしく見える。そして、安藤が仕切りだす。なんなんだこの刑事は●OPの時代がかった感じも、一貫している。

・四話:演出がとても地味で、原作も大きくは変えていない。全体に色が暗い。時代が昔なのだということが、動画になって空気を負うことでかなり明確になっている。『カイジ』よりも落ち着いた演出である。市川登場と喧嘩。喧嘩のシーンで、三人の脚を撃っていたはずが、アニメ版では一人にしか撃たないようになっている。相手の一人だけが暴走しているというイメージが強くなっている。

・五話:アカギが遅れてやってきて、ぬるりときて、絶一門のあたりまで。音楽は変わらずかっこいい。ナレーションの古谷徹の声は、ちょっと声が若すぎるか。『カイジ』ではもうすこし年が上の声になっている。

・六話:リアルな勝利を目指すとか、虚を実に変えるブラフとか、そうした寓意性が読み込まれていく。この展開は、とくに『天』の後半で明らかになり、在全の人生相談にまでつづくものだが。ともかく、拾いのいかさまで、点棒を十分の一にきりつめさせるところまで。

・七話:市川をたおすとこまで。市川が、三条件の満貫をあがられたあとに、アカギの白を盲牌しに卓上を身を乗り出す演出は、アニメ版でつけくわえられたもので、なかなか迫るものがある。

・八話:六年後。工員姿のアカギ(ややつげ義春的な世界)とか、一部でファンが多い気もするニセアカギの登場など、見所が多い。「トッポイ」って、ここでは「不良」の意味で使っているけれど、辞書だとたいがい「気障」の意味がメインになっている気がする(いずれにせよ俗語だから構わないけれど)。福本マンガって、こういう勝負と勝負のつなぎのところが一番面白いよなあ。『カイジ』でいうとバイトシーンとか、心美と昭和公園で遊んでるところとか、ペリカのくだりとか。

・九話:かくして、ニセアカギとの対決。牌が透けて見えるのかと問われ、この六年そのくらいできなくては生きてこれなかったといった返事で、これまでの六年がけして空白ではないことを語っているのがうまい。喧嘩の時間と、賭けの時間がイコールになる。また、ニセアカギとの対比で、賭博論がかなり明確に語られる。無為の死こそギャンブルの本質という、なんだかバタイユ主義めいた箴言。『カイジ』冒頭の「しょぼいギャンブル」が、本当の時間としての「真のギャンブル」と対比されていたことも思いだそう。時間を薄めずに一瞬と人生の全体を(「永遠を」ではない)交換するところに、福本の言うギャンブルの一瞬がある。それは理を積み上げた結果、ついに理ではないものによって決する一瞬なのだとすれば、ほんとうに「内的体験」になってしまうようだが、どうするか。『天』の最期のアカギは、そうした話も含めて「学者のたわごと」として跳ね返してくれるようにも思う●後輩にたかっている工員たちとの勝負も面白い。勝つべくして勝つという姿、これはまだ理の範疇。

・十話:ニセアカギ対浦部。この、同じ条件をひきつぐっていうところの浦部、やはり危ういなあ。というか、青天井をみとめてしまった組長が、ひどいとも言える。勝率派のニセアカギには、つらすぎるルール。このときのニセアカギの翻弄されっぷりは、本当に弱々しく描かれている。カンひとつでハネマン警戒するとは。

・十一話:ニセアカギは確率を信仰していると組長に酷評されておろされる(しかし、それを分かって組長は雇っていると明言していただけに、かわいそうなニセアカギ)。オサムが打ちはじめる。『天』における、ひろゆきのような、教えられる青年キャラの位置は重要で、彼らがでてくると、出来事はすべて寓喩となり、言葉に結晶される教訓があらわれる道理だ。オサムが賭金額を知る場面では、「ざわざわ」ではないまでも、ある物質的な異音が背景になりだす。オサムの、賭金への怯えをうちけしつつアカギがうちはじめる。ノーテンリーチを装い、「後の三巡」を買うところ、また四暗刻オープンリーチで相手が振り込んでくるのを見送るところなど、名場面つづき。

・十二話:相手にカンを二つさせる、有名な「リーチ偶機待ち」のところ。これは、よく考えるなあと思う。確率が低ければ低いほどすごく感じてしまうというのは、なんだか危険なインフレとも思えるが。そして、満貫が必要なので、タンヤオか三色同刻か役牌かと迷わせたうえでのハイテイ単騎待ちに、もう布石はうったと席をたつ(お前はもう、死んでいるというわけだ)。確率を低くしていく流れでは、これが一つの頂点か。

・十三話:「生きた理」を語り、浦部の思考を解いていくアカギ。解決篇なので、ほとんどの映像が使い回し。前回の映像を使えるとなると、制作者たち、抗えない。その理。使い回せるという、その事実に。「未曾有」、「保留」などの、準福本語も見逃せないところ。ともかく、浦部篇終了。積み木の比喩の映像化などがかろうじて、アニメ版にオリジナルなもの。

・十四話:鷲巣篇導入部。今回は、アクション要素たくさんなので、マッドハウスらしい味がでている。逆に言えば、いままでの室内戦は、手を抜くにはいいが、見所をつくるには難しかったともいえる。アカギがヤクザの賭場で命を張っているシーンは、大幅に短縮されて、問題の場面がいきなり提示されるかたちになっている。はしょりすぎな気もするが、まあともかく一話に収めている。このヤクザとの挿話は、賭けの目は王でも変えられないという、アカギの主張を明確にする意味ももっている(というのも、この後現在の額で50億という勝負がはじまるわけで、そんなものを麻雀でやりとりするということの現実性は、どう考えてもかなり危ういというか、そんなものその場の武力に依るのではないかという当然の感覚を麻痺させとく理由があるわけだ)。EDが変わっているが、エスプリは同じ。

・十五話:鷲巣篇の説明。鷲巣の人物紹介のところは、かなり映像が足されていて、むしろいまの『ワシズ』がこれをかなり参考にしていそうな気がした。アカギたちが、組の「兵隊」を連れて行っている様など、アニメ版に付加されている演出も多く、全体に力が入っている。鷲巣邸のなかをCGで全体に見渡す演出などは、『逆境無頼カイジ』に引き継がれるもの。鷲巣はかなり若く描かれている。その狂気もすでに明らか。

・十六話:鷲巣麻雀の説明と賭金調整、勝負がはじまったところ。血一本が十年分という説明は、時間を凝縮する福本伸行流の生の解釈になっている(「甲子園決勝の九回ツーダンフルベースがずっとつづく」というような表現が、昔のインタビューにあったはずだ)。腕を賭けるというくだりで、画像に波が走るような演出。世界が歪むという、福本マンガの演出を、違うかたちで表現しているともとれる。総じて、ここまで福本マンガ独自の演出はそのままでは用いず、違うかたちで似た効果を探っているという印象。『逆境無頼カイジ』では、それをそのまま用いて、ところどころマンガ的になっている。それにしても、ここから26話まで鷲巣麻雀とは。原作の偏ったバランスまで再現しなくていいのになあ。

・十七話:鷲巣邸の壁にある絵が、ロマン派調ですごく目立っている。ややブレイク的ともいえる。「第二の河」の気づき。それから、四面待ちを捨てて単騎で打ち取るというところまで。勝負が要請する時間の密度と裏腹に、明らかに作品の密度が薄くなった感覚がある。砂漠に立ち尽くす比喩などが、映像的に追加されてはいるが。

・十八話:最善をつくしても、負けるのが麻雀という真理の提示。アカギの読みを、鷲巣が豪腕ツモで押し切っていく。アカギは一度も振っていないけれど、ツモで血を抜かれていく。オーラス、ブラフをしかけるところまで。

・十九話:鷲巣はオーラスまわってしまい、黒服に試し振りさせた牌で、山越振込をする一人相撲。鷲巣はいままでの敵と違うはずなのに、ここはちょっと鷲巣が弱く見える。それを補うためか、通常の麻雀では山越を待てるかもしれないが、このルールでは無理だという強調がなされる。一半荘おわり、アカギは血液補充をしない。二ゲーム目がはじまっている。

・二〇話:二半荘目は、アカギが好調。ところが、最後に赤信号がともる。いままで、みなが危険と思うものをアカギがとおすという展開が多かったところ、傍目の安岡が大丈夫と思ったオーラスの配牌時に、アカギの手がとまり、鷲巣のドラ「西」に焦点が絞られるという展開。別に構わないことだが、「西」が鍵牌になることがやたらと多いマンガだと思う。最後の西を黒服がつもり、大詰め。

・二十一話:二ゲーム目、最後の一局で一話つかっている。差し込みに照準をあてたリーチをかけて、誘いだす。手法としてはとくに珍しくないが、最終局面なのでひきこまれる。この半荘六回、どれもクライマックスになりえるという制度は、やはりみごとにつくられている。鷲巣の声がいよいよ怪演。

・二十二話:前局の解説でほぼ終わり。これは、説話篇とも言える。しかし、たしかにこのドラ「西」をめぐる一話はよくできている。血を補給しなかったことの意味、相手の心を操作すること、などがうまく説明されるので、表面的な牌の動き以上の深みがゲームに与えられている。「優利と勝利の違い」などの主題も明確。第三回戦。鷲巣が、自分はアカギを殺すために生まれてきたのかもしれないと思うところは、なにやら過剰か。

・二十三話:三回戦、変わらずアカギ好調の流れ。とはいえ、鷲巣がカンドラを三つのせて、「第二の河」をひっかけにつかったリーチをかける。アカギはそれをぴたりととめるが、鷲巣がつもれば終わりという状況は変わらない。というところまでを、鷲巣の演技だけでもたせる。これは、正直つらい。鷲巣の狂気のインフレに陥って。

・二十四話:鷲巣がさらにカンドラをのせまくり、ドラ12までふくれあがる。冥府からの何者かが、鷲巣を押し、鷲巣が前傾になる。言ったことがほぼすべて映像化される、暗喩の世界に入る。一話で一局も終わらず、ほとんど鷲巣しか喋ってない。

・二十五話:鷲巣はリンシャンであがれず、鈴木にも振り込ませない。そこで、アカギと安岡が鳴かせあってあがりをつくってしまう。頭はねに気づかず、ロンを叫ぶ鷲巣が、一つの山場。あとは、変わらずに比喩的映像の連続。鷲巣の赤いオーラを、アカギが青いオーラではねかえすところは、もはや超能力合戦になってしまっていて、興ざめだ。殺意が怯えからきているのだというところが、変わらぬモチーフとなって。

・二十六話:そして最終回。三回戦、四回戦とアカギが勝ち、血を破棄して次戦に引きづり込んだところまで。これだと、伏線回収してないので、途中病院に寄ったのが本当にドリンクのためになってしまっている。「ざわざわ」の文字は、奇怪な高音とともに一度だけ現れる。ここでは、声とあわせられていないことに注意。そして、最後は現代の東京でアカギが歩いているところをうつして終わる。


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