七里の歌謡曲日記8 ガロ「学生街の喫茶店」、あるいはすぎやまこういちについて
だが(この逆接は杉本彩に掛かっている)、歌謡曲の幸福な夢が、どのような危険と対価になっているのか、十分意識しておく必要があるのだろう。感受性の一元論は、つねに退嬰の夢と表裏になっている。否定神学と多様性の「倫理」を超えて、感受性による選択の問題を、あるいはひとつの詩学を語ろうとしてきたわれわれの歌謡曲論は(大変なことだ)、ここではっきりと感受性の暴力と、ファシズムの危険と向き合う必要がある(相対主義的なシミュラークルの世界に抗して、自分と世界を接続しようとする悪しきセカイ系と決断主義の論理に欠けているのは、「なぜ勝利するのは自分でなくてはならないのか」という問いであり、つまり暴力への問いなのだ[だから、それは素朴な実存主義に陥る]。すぐれたセカイ系作品は、無意識的にこの問いに応じようとしているようである)。
ヒトラーの風景画は「RPGや宮崎アニメに出てきそうなものが多い」という評価をあるサイトでみかけたが、この指摘はきわめておおきな問題につうじている(ttp://rasiel.web.infoseek.co.jp/words/660530.htm)。われわれにいま必要なのは、宮崎駿の描く空想の「ヨーロッパ」の美しさに、山川直人『コーヒーもう一杯』に流れる時間の心地よさに惹かれながら、なおその背後に潜む退嬰への夢をファシズムと切り離す、美学の論理的強度にほかならない。
ガロの「学生街の喫茶店」の作曲者が、すぎやまこういちだということを、ぼくはいままでほとんど意識しないできたようだ。あらためて聞きかえすと、なるほど多くのところで(とりわけ間奏において)、すぎやまこういちのリズムが現れている。この復古的で勇壮なリズムのうちに潜んでいた危険がいま、すぎやまの政治的発言として顕在化してきていることを、われわれは知っている。たとえば、ネットからの引用になってしまうが、「チャンネル桜」を初出とする以下の発言。「このままでは沖縄や日本は将来的に、第二第三のチベットになってしまう。中国は精神的にも害毒を撒き散らしている。悪がね、ドンドンはびこってきてっていう、その悪の帝王を倒しに行く、ドラゴンクエストで遊んだ人たちが、その、悪の帝王に対しては戦わなくてはいけないんだと、戦って平和と幸せを勝ち取るんだということをね、ドラゴンクエストを通じて肌で感じて学んで欲しいですね。まぁ、極端に言えば、憲法改正をね、ドラクエパワーも手伝っているよ、と」。ぼくは、ドラクエの物語がそのように利用されうる弱みをもっていることを認めるが、同時に、そのような危険にたいして、堀井が『6』や『7』のいくつかのシナリオのなかで、どのように対処してきたかを読むことができるつもりだ。この点については、いずれドラクエ論のなかで記す必要があるだろう。「ときは 流れた」。むかしは隣の村同士が争ったものだと、県同士の戦争をしながら人々は笑った。むかしは隣の県同士が争ったものだと、国同士の戦争をしながら人々は笑った。むかしは隣の国同士が争ったものだと、星同士の戦争をしながら人々は笑った。そんなくり返し自体を、ぼくは明日あなたと笑いたいのだが。